2012年8月16日木曜日

ヤギ捨ての心理

先日、小さな牧場を営んでいらっしゃるおじさんが、こんな話をしてきました。

「こんな風に動物を飼っていると、『かわいいから子ヤギが欲しい』とか言ってくる人がいるんだよ。で、生まれたらあげるんだけど、ちょっとしたら戻ってくるんだ。
どうしてかって?
飽きちゃうんだってよ。飽きちゃって、うちに捨てにくる。」

あまりに臭くて…とか、餌代が思った以上に高くついて…、など、ヤギを飼うこと自体が負担になって捨てるのではなく、単に「飽きた」から捨てにくる…。

そもそも「飽きる」ってどういうココロの動きだろう。気になって調べてみました。

「同じことが重なり、この上それを続けるのがいやになる。もう、沢山だと思う。嫌気がさす」(広辞苑)

ちょっとこれをヤギ飼いに当てはめてみました。
  • これ以上、可愛がり続けるのがイヤになる、一緒に生活し続けるのがイヤになる…
  • カワイイからヤギを飼おうと思ったんだけど、そのカワイイと思う気持ちが重なり続けて消えていき、もう沢山だと思って、嫌気がさす…あるいは興味が薄まる
  • カワイイと思う対象が「ヤギ」から「別のもの」に変わったため、相対的にヤギへの愛情が薄まっていく 
いずれにしても、ヤギを生命あるものとは見ず、かわいい玩具、動くぬいぐるみとしてしか見ていないココロの動きのように思えます。

伴侶動物や家畜にとって、人間に飽きられるということは、飼育を放棄されることであり、それは、そのまま「死」を意味します。

フードインク」というドキュメンタリー映画の中での印象的なコトバが脳裏に浮かびました(記憶の中のコトバなので、若干言い回しとか違っています)。
「家畜を生命あるものと見ず、マシーンやモノ、商品としてしか見ない人間は、他の人間に対しても家畜と同じように接するだろう」
(ポリフェイス農場 J. サラティン氏より)
We provide a habitat that allows each plant and animals to fully express its physiological distinctiveness—i.e. the pigness of the pig. In our Graeco-Roman western linear reductionist compartmentalized fragmented individualistic systematized disconnected paradigm, plants and animals are just inanimate piles of protoplasmic structure to be manipulated however cleverly the human mind can conceive to manipulate them. I suggest that a society which disrespects and dishonors the pigness of the pig to that extent will also view its citizens with an equivalent egocentric manipulative mindset—and other cultures. It’s how we respect and honor the least of these that creates an ethical, moral foundation upon which we honor and respect the greatest of these.
(Polyface農場のWebsiteより引用)

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